「揃江ぇ~」
 繕明のデスクに、リーダーが猫なで声を上げながら寄ってきた。思わずキーボードを叩く手が止まる。嫌な予感がする。と言うか分かりきっている。これは誰かに残業を押しつけたい時のリーダーの癖だった。
「何でしょうか?」
「今日、この後何か用事あるか?」
 本題に入る前に、こちらにも選択権があるように振る舞うのもこの人の癖だ。
「まあ、部屋の掃除くらいですね」
 特に用事はないが、繕明はこう言うようにしていた。
「じゃあ、ちょっと頼みたいことがあるんだよ~」
 そら来た。
「何です?」
「今朝の業務改善ミーティングのレジュメ、今日中に書かないとダメなんだけどさぁ。俺って明日、朝から営業があるから寝とかないとやばいんだよ~」
 言いながらリーダーは壁掛け時計へ顎をしゃくる――もう午後10時を過ぎていた。
「あのミーティングにはお前もいたし、明日は有休なんだろう? やってくんない?」
 繕明は溜め息を飲み込んで、代わりに笑顔を作った。
「いいですよ」
 途端に書類の束がデスクに放られ、ドサッと音を立てた。
「助かったぁ! じゃあ頼むよ。今度酒でも飲みに行こう、な? そんときゃ奢るから――」
 もう27回目を数えるが一度も守られたことのない口約束を残し、リーダーは上着を羽織ると足早にオフィスから出て行った。
 それを合図に、オフィス内の全員がそろそろと帰り支度を始めた――。
 繕明が会社を出たのは、午後11時を大きく回ってからだった。コンビニで買った夕食を持って帰宅している途中、急に賑やかな音に耳を叩かれた。目を向けた先はパチンコ屋だった。折角稼いだお金を賭け事に消費するなんて、繕明には一生縁のないことだ。しかし、そんな店に興味を引かれた。正確には店内にだ。
 そこには見慣れた横顔があった。
「リーダー?」
 こぼれ落ちていく玉を凝視するその姿を見て、繕明は大きな溜め息を吐いた。
「問いただす気にもなれないよぉ」

 次の日の早朝、繕明は待ち合わせ場所である丹波口ビル立体駐車場の前にいた。依頼主がこちらに出向くと言い張ったので、よく分からなかったがこちらの住所を伝えると、この場所を待ち合わせ場所に指定してきたのだ。
 依頼者曰く。
「マジで金を使いたくねぇんスよ。その……、旅費の半額も出せないくらい。でも、部屋をどうにか綺麗にしたいんスよね」
 どういうことだ?
 繕明は昨日の夕食の残り――コンビニで買ったコーヒー――を朝食代わりにしながら疑問に思った。
 確かにここなら歩いて来れる。すなわち報酬は発生しない。しかし、汚い部屋を掃除して欲しい人がこっちに来てどうするつもりなんだろう?
 初冬ど言えど、日が照っていると暑い。熱がこもってきたスーツをはだけていると――。
 ファッファー。
 普通の乗用車とは違うクラクションが聞こえた。
 繕明が目を向けた先に、運転席から手を振っている若者が見えた。
「揃江さんスか?」
「はい、そうです。倉坂さんですか?」
「そうっス。付いて来て下さい。駐車しますから」
 倉坂が車を立体駐車場に回しだしたので、繕明は「なるほど」と納得しながら、その特殊な車の後を付いていった。
「これ、俺んちっス。諸々込み込みの総支払額251万8500円。金かけたっス!」
 運転席から降りてきた倉坂は、自慢げにキャンピングカーを紹介した。そしてその内装も――。
「入ってすぐにキッチンと冷蔵庫。テーブルにソファー。そして奥にはベッドが二つ」
 この説明を繕明風にアレンジすると、
 入ってすぐに皮脂で黄ばんだ肌着の山。積み上がった音楽雑誌と衣装――としか言えない落ち着きの欠片もない洋服。そして奥にはギター、ドラム、キーボード、アンプと配線類。そして、それらを抱えるように――むしろ抱えられるように――寝ている人が二人。
「もうこれは出っ張りじゃなくて、とんがりだ……」
「は? キテレツ大百科がどうかしたんスか?」
「あ、いえ、何でもないです。あの……ところであの人達は?」
「ああ、俺のチームっス。寝かしといたらいいんで放っといていいっスよ」
 世の一般常識を語るようにそう言ってのける倉坂を改めて見てみた。坊主頭に破線みたいな眉。ニホンザルを一重にしたような顔付き。唇の上にだけある薄い髭。何が描かれているのか見て取れないイラストパーカーと防寒用のナイロンズボンにブーツ。その後ろにはキャンピングカー……。
 明らかに世俗的な就業者とはかけ離れた人種だった。
「取りあえず、掃除から始めます」
「っしゃ! やりますかあ!」
 出るは出るはで、あっという間にゴミの山ができ上がる。カップ麺の空、紙くず、切れた弦、折れたスティック、曲がったピック、破れたギターケース、色々な雑誌類……。
 まるで布団から綿を引っ張り出してる気分だった。
「今、ミュージシャン目指してまして、ブログ更新しながら日本全国あちこちのライブ会場を巡ってんスよ」
 ドアポケットも同様にゴミが満載していて底の方の物が取れない。ダッシュボードには通帳や印鑑と言った各種手続き用の書類が乱雑に突っ込まれていた。
「寝てる奴らとは半年くらい前のライブで意気投合して、今は一緒にデビューしようって思ってんスよ」
 何よりも、この車は交通法規的にまずい。スペアタイアもなければ、非常信号用具も停止表示機材も輪止めも積まれていなかった。
「まずは汚れ物を洗いましょう。近くにコインランドリーがありますから」
「ええ!? 金かかんじゃないスかぁ」
「こんな風にしてたら、雑菌繁殖して病院のお世話になるかもしれませんよ。それこそ、お金がかかるでしょう? 健康な身体は最大の資本です」
「う~ん、まあ、そうっスね……」
 不服そうな顔をしながらも倉坂は納得したらしく、
「おい! ヒロキ、マサ、起きろ! コインランドリー行ってきてくれ。それと、朝飯な」
「めんどくせぇなぁ」
 そんなことをぶつぶつ言いながら、ヒロキ、マサと呼ばれた寝癖だらけの青年達は、繕明の手書きした地図を持って出かけていった。
「はっきり言いますが、とにかく不衛生で、不用意です。それに不用心すぎます。こんな所に大事な物を入れていたら、車上荒しに取ってくれといってるようなもんです。その上、最低限の携行品も積まれていません。警察に止められたら厳重注意を受けますよ」
「でも、そういうの積んでると、たまに楽器に当たっちゃうんすよね。工具とかの金属類は特に――」
「いや、ケースにしまいましょうよ?」
「ケースって高いんスよ? 精神的に手が出なくて――」
「じゃあ、ホームセンターで発泡スチロールのシートを代用して下さい。安価で手に入りますし、楽器に傷もつきません。収納場所も可能な限り一カ所にまとめましょう。運転席の上にあるロフトが使えそうです。そうだ、耐震と楽器の保護のために、マジックテープとナイロンのバンドで工夫しましょう」

「うお! 広ぉ!!」
 二時間後、戻って来たヒロキとマサが口を揃えた。
 ゴミが一掃された床は人がすれ違えるほど広くなり、元々あった収納棚を有効活用した結果、目に見える所に余分な物がなくなってすっきりしている。キッチンも、主婦に見せれば及第点がもらえるはすだ。
「綺麗になりましたね」
「でも、やべぇよ。この出費は……」
 心からの笑顔を浮かべる繕明の隣では、倉坂がホームセンターで受け取った長いレシートに目を落としてげっそりとしていた。
 2、3万かかってしまったが、そのほとんどが金庫の代金だ――もっと厳密に言えば固定具の代金だが。まあ、仕方がないだろう。快適で安全な暮らしにはお金がかかるのだ。
「あとのゴミ処理は私が引き受けますよ。うちまで送って下さい」
「了解っス」
 帰りの道すがら、倉坂は終始しゃべり続けた。
「揃江さんて、何を楽しみに生きてんスか?」
 受け手によっては誤解を招きかねない質問だが、倉坂のような人種が言うと、その質問の意図は至って誠実なものだと分かる。
「仕事――ではないですね。やっぱり、時々こうやって頼まれた時にやる片づけが生き甲斐ですかね? まあ、はっきりとは言えませんが」
「俺、今年の春までで8年くらい勤めてた土建屋の仕事辞めたんス。それまで、揃江さんみたいに仕事の合間にやってたライブが楽しみで生きてました。でも、段々なんかそんな風に曖昧に生きてんのが嫌んなってきたんスよ。そんで、通帳見れば結構貯まってて、5、6年は余裕で暮らせるんで、この金使ってなんかやってみようって思ったんス」
「それでミュージシャン活動を?」
「人生って賭けに出なきゃ損だなって思えて、だったら、できるだけでっかい賭けに出ようって――」
 その後も、倉坂は延々と自由に夢を語り続けた。
 繕明には、そんな倉坂が自分で考えた遊びを説明する子供のように見えて、理解できないという気持ちの反面、うらやましかった。

「揃江ぇ~」
 繕明のデスクに、リーダーが猫なで声を上げながら寄ってきた。思わずキーボードを叩く手が止まる。嫌な予感がする。と言うか、分かりきっている。また悪い癖を出したいらしい。
「何でしょうか?」
「今日、この後何か用事あるか?」
「まあ、部屋の掃除くらいですね」
「じゃあ、ちょっと頼みたいんだがなぁ~」
「何です?」
「昨日、先方から受け取ったプロジェクト。この開発スケジュールの割り振りをしといてくれないか? お前なら社員の力量も把握してるからいけるだろう? 俺って明日、朝から出張でさぁ。寝とかないとやばいんだよ~」
 リーダーは時計へ顎をしゃくった――午後9時半を過ぎている。
「資料と設計書は全部揃ってるんだ。やってくんない?」
 繕明は笑顔を作った。
「いいですよ」
 途端に書類の束がデスクに放られ、ドサッと音を立てた。
「助かったぁ! じゃあ頼むよ。今度酒でも飲みに行こう、な? そんときゃ奢るから――」
 もう28回目を数えるが一度も守られたことのない口約束を言った係長を――繕明は呼び止めた。
「二人でやったら早く終わりますよ」
「そうじゃなくて、やっといてくれって――」
「それと」
 リーダーの言葉を遮って繕明は続ける。
「もしよかったら、今日の帰りに少しパチンコを教えて頂けませんか? 一昨日くらいから急に興味が湧いたんですけど、いかんせん私は賭け事には疎いものでして」
 リーダーはにわかに鼻白んだ。
「でも、どうしてもお急ぎでしたら無理にとは言いません。代わりに部長にでも教えてもらいま――」
「ああ、分かった!! 一緒にやろうじゃないか、その方がさっさと終わる。うん、正論だ。そうだ、パチンコより少し飲まないか? 言ってても中々連れてってやれなかったもんなぁ」
 慌てて近くの椅子を持ってきたリーダーは、甲斐甲斐しく資料をめくり始めた。その様子を見たオフィス内の全員が静かにどよめく。
 俺にとっての賭けはこのくらいでいい。
 繕明はそう思いながら、渡された資料に目を通した。

小説『旅片人』 目次一覧

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