昼休みに給湯ブースで珈琲の香りを楽しんでいると後輩の川下勇夫(かわした いさお)が紙カップを手に歩いて来た。
「呼ばれていいですか?」
「うん、いいよ」
 揃江繕明(そろえ よしあき)は笑いながら勇夫のカップに珈琲を注いでやる。この間、仕事用の簡易システム手帳の作り方を教えて以来なついてくれたらしい。
 勇夫はお礼の会釈をしてカップに口をつけた。
「そう言えば揃江さん、もう引っ越しの準備って終わったんですか?」
「ああ、あとは引っ越し日を待つだけだな」
 繕明はいい加減ワンルームの間取りと、同じ窓から見える同じ景色にも飽きてきたので、年末前に2DKのマンションに引っ越すことにしていた――身軽な独り身だからこそ出来る遊びだ。
 ひとしきり雑談したところで、勇夫が切り出すように言った。
「ところで、揃江さんて掃除するのとか整理整頓って得意ですか?」
 まさかの部分を訊かれて一瞬ひるみそうになったが、なんとか平常を崩さずに答えた。
「まあ――、普通には出来るかな」
 男だてらに片づけるのが趣味なんて、仕事場にはあまり持ち込みたくない私情である。
「で、それがどうかした?」
「それが、あの~、あいつ居るじゃないですか、ほら、俺と同期の小久保」
 勇夫の言う〝同期の小久保〟とは、小久保良輔(こくぼ りょうすけ)のことで、繕明にとってはなんとなく悪いイメージしか湧いてこない存在だった。
 新入社員の同期という存在は、ともすれば先輩から比べられてしまうもので。その当時、勇夫を含む新入社員達は、やはりことあるごとに競い合わされていた。
 その中でも営業部に配属された良輔は、特に秀でているでも、頭角を現すでもなく。任された仕事を一生懸命やり遂げようと努力する真面目な性格というだけで……。

 失礼な話だが、思い浮かべたところでこれといった感情の湧いてこない存在だった。
 しかし、三ヶ月の研修期間が終わり、実際に既存・新規を問わず顧客会社への営業を任されだしてからは、非常に困った性格の持ち主であることが露見し始めたのだ。
 顧客会社いわく――。

 〝あんな融通の利かないサービスはない〟
 〝あいつじゃ話にならん! 責任者を呼んでこい!〟
 〝人の話も聞けないヤツをよこすな!〟
 〝段取りを一から十までこちらに補助させる営業なんか聞いたことない〟

 と、良輔と関わった会社から刺々しいクレームの電話が多く寄せられたのである。
 なんでも、必要書類を忘れたり、待ち合わせの時間に来なかったり。酷いものでは、相手になにを言ったかを忘れていたというのもあった。
 彼を要因とする苦情の対応と、迷惑を掛けてしまった顧客への埋め合わせは社員総出で行われ、繕明も余計なストレスを溜めさせられた一人である。
 取りあえず再研修ということで、先輩社員が同伴する形を取ったのだが、良輔の性格はその名に反して良くならなかった。
 彼は、昨今世間で話題になっているモンスター某(なにがし)部類の人間だったのである。
 仕方なく、その性格を受け入れてくれる企業への営業だけを良輔に任すことで事態は収拾されたのだった。
「なんだ? あいつ――、またなにかやったのか?」
 思わず繕明が声をひそめると、勇夫は首を横に振る。
「いえ、仕事の話じゃなくてですね。あいつも引っ越しするんですよ。それで、よかったら手伝ってもらえないかなって――」

 後日、良輔の住むマンションの前で待ち合わせた。
 勇夫が到着しても、待ち合わせの時間になっても良輔は顔を出さなかった。
 焦れた勇夫が携帯電話で連絡すると、受話口から
『ああ、今行く』
 そんな声が聞こえて来た。どうやら待ち合わせを忘れていたようだ。
 ほどなく、良輔が顔を出す。
「どうも」
 挨拶した良輔の顔には、ひとかけらの感情も見られなかった。髪型や服装には気をつかっているので、見た目にかっちりとはしていえるが、全体に力がない。顔筋が重力に負けていて、かててくわえて口も半開きだ。
 なんというのか、これでよく営業がつとまるな。そんな失礼な言葉が思い浮かんでしまう。
 よく考えてみれば、良輔の顔をまともに見たのはこれが初めてだ。
 繕明がそんなことに気付いていると、
「部屋、こっちです」
 良輔は背中を向けて歩き出してしまった。
 その態度に勇夫が噛み付くように言う。
「おい、小久保! 揃江さんは手伝いに来てくれてんだぞ、もうちょっと挨拶の仕方があるだろう」
 言われた良輔は首だけで振り向き、
「よろしくお願いします」
 それだけ口を動かして、また歩き出した。
 繕明の隣で勇夫がばつが悪い顔になる。
「なんか、すいません」
「いいよ、気にするな」
 親切心を蹴り飛ばされた気がして、確かに気分は良くないが、それは勇夫のせいではない。
 繕明は一度深く呼吸をしてから、良輔のあとに付いていった。

 部屋は綺麗に片づいていた。というより、引っ越しの準備がまったくされていない。
 なので、繕明は当然の質問をする。
「小久保君、引っ越しはいつ?」
「明後日です」
 平然と答えられてしまい、繕明はさすがに呆気に取られた。
「毎日少しづつでも片づければ良かったじゃないか」
「いや、片づけたかったんですけど。仕事が忙しくて」
「そうは言ってもなぁ――」
「営業って大変なんですよ」
 繕明の言葉を遮るように良輔が口を動かした。その声には感情があり、思ったことが上手くいかなかった時の子供の声に似ていた――つまるところ、怒りが声ににじんでいる。
「契約を取りつけるために先方の予定を聞かなきゃならないし、プロジェクトを始める上で開発室スタッフの力量を考えて裁量判断もしなきゃならない。開発の遅れているプロジェクトがあったら、休みの日だろうがお客さんに頭下げに行くのも営業の仕事なんです」
 良輔の言い分に我慢できないらしい勇夫が肩を怒らせている。
 勇夫が今にも本当に噛み付きそうだったので、繕明はわざと声をやわらげて言った。
「よし! じゃあ、始めるか。必要無いと思ったけど、車に段ボール箱積んであるから取りに行こう」
 繕明と勇夫が歩き出しても、良輔は付いてくる気配がなかった。
 繕明は良輔に振り向き、
「小久保君、行くよ」
 すると、良輔は素直に付いてきた。

 段ボール箱を運び終わった繕明はすぐに指示を出した。
「引っ越し先ですぐに使わないものから箱詰めしていこう。本とかコンポとかテレビとかそういったやつを――」
 それから壊れやすい物を箱詰めする時は、十分にクッション材で包むように言う。どんな引っ越し業者だろうが、荷物の扱い方に関しては五十歩百歩と考えておいた方が無難だからだ。ある程度の保証はきくだろうけど、保証をしてもらわなければならない事態なんて事前に避けておくべきだ。
 服が入れてあるチェストボックスは、引き出しをテープで止めればそのまま運べる。
 引っ越した先で、すぐに使わなければならないパソコンや最低限の食器、通帳などの貴重品は小さな箱にまとめて良輔自身が運べるようにした。
 なにが入っているのか、本人がぱっと見て解るように、箱には番号をふって、その中身を携帯電話のカメラで撮った。これなら荷解きの時や、急に入り用になった物を取り出すのにも便利である。
 昼を大きく過ぎて、冬の陽射しが早くも夕付き始めた頃、作業は終わった。
「あとは段ボールの口閉じてくだけだから」
「どうも――」
 良輔は、そこからなにも言葉を続けなかった。
「川下、帰ろうか」
「あ、はい」
 勇夫の返事を待たずに、繕明はさっさと靴を履いてドアに手を掛ける。
「じゃあ、また会社で」
 そう言いながらドアを開け、勇夫と一緒に良輔の部屋を出た。
 帰りの車の中、勇夫が頭を下げてきた。
「すいません。なんか――なんていうか、すいませんでした」
「いいさ、気にすんな。まぁ、こんなこともあるさ」
 その日は、どうしてもと言う勇夫に飲み代をおごってもらうことで、水に流すことにした。

 数日後、会社で良輔と顔を合わせた時、繕明は声を掛けた。
「よう、引っ越し先の住み心地はどうだ?」
「……はっ?」
 良輔は数秒繕明の顔を睨んでからそう言った。そして首を傾げると、さっさと歩いて行ってしまった。
「あいつ、ひょっとして……俺のこと覚えてない?」
 呟きながら繕明は思った。
 ――まぁ、こんなこともあるさ……。

 ちなみに――。

 繕明の引っ越し荷物は段ボール箱2つに収まり、移動もマイカーで事足りた。

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