年末の大掃除とは、一年の総決算的な家内の浄化行事であり、今年の汚れを来年に持ち越さないためにも怠ってはならない。深い深い日本人の心意気なのである。
少し歩けば、あちらこちらの窓から埃が舞い上がっているこの時期、繕明の携帯電話は鳴りっぱなしになる。多い日には1日10件以上も電話が掛かってくるが――。
お察しのとおり依頼内容のすべてが大掃除関係のことで。やれ物置の整理をしたいとか、やれガレージを掃除したいとか。片づけと言うよりはゴミ掃除に近いことをやるのである。 そんな依頼の全部に答えていては身体が保たない。
なので、大掃除シーズンの12月は先着1名に限り依頼を受けるようにしていた。ちなみに、この決まりは名刺の裏に記載してある注意事項のひとつだ。
そして今日。
その繕明の片づけ納めである大掃除をしに来たのだった。と言っても、自分の部屋から3部屋隣に歩いただけだが。
そろそろ見慣れ始めたデザインのドアの前に立ち、インターホンを押す。
向こう側とこちら側の通話がつながった途端、なにやら紙を擦り合わせたようなガサゴソという雑音が聞こえ、それをかき分けるように返事が来た。
『は~い』
やんわりとした声が聞こえ、繕明はインターホンに話しかけた。
「揃江です。お掃除の件で来ました」
『あ、は~い。今開けま~す。あなた~、揃江さん来たわよ~』
すると、雑音のさらに奥の方から旦那さんらしい人の声が聞こえてきた。
『え? 本当に来たの』
『そうよ~、ほら大掃除のことお願いしてたでしょ~?』
『ああ、分かった。じゃあ、俺が出るから』
『え? 私もお出迎えするよ~』
『いいから、お前は掃除しといてくれ、このままじゃあ今日、この中で寝ることになるぞ――』
そこから10秒ほど眠たくなる会話を聞かされたあと、ようやく旦那さんがドアから顔を出した。
……その足元は物で埋め尽くされていた。
繕明は引っ越しの挨拶の時、粗品と一緒に名刺を配っていた。
だが、あらゆる物事に警戒を怠る訳にはいかない今日日。名刺を見せた瞬間に、相手は眉を曇らせてしまうのだった。
しかし、そんな世情にも笑顔の絶えない人はいるらしい。繕明が挨拶で回ったうち、この部屋の花輪夫妻だけは違った。二人仲好く玄関にまで出てきてくれて――先に出てきた奥さんの智恵美が、夫の恵介を無理矢理引っ張り出したのだが――、春風のような挨拶を交わせたのだった。
そこで名刺を渡したところ、その場で智恵美に依頼されたのである。
「取りあえず上がって下さい。足の踏み場もありませんですいません」
入室を許可した恵介の言葉は誇張でもなんでもなかった。
土間と上がり框の区別も付かない床に靴を脱いで部屋の中に入る。見えない床を足で探り当て、非常にじれったい歩幅で、物が波打つキッチンに入った。
「揃江さん、ようこそ~」
寝ぼけたような声を目でたどると、寝室らしい部屋に智恵美を見付けた。今しも押入れの中の物を出して大掃除の真っ最中である。
その様子を見た繕明は少し大きめの声で智恵美を止めた。
「奥さん! ストップ!」
「へ?」
と、智恵美は呆気に取られた顔になった。
繕明はその顔に向かって説明し始めた。
「これは、大掃除で一番やってはいけない典型例です。掃除と片づけは一カ所ずつ段取りを組まなければいけません」
「でも~、まず、いらない物を捨ててしまおうかと思って~」
そう言って智恵美は顎に人差し指を当てる。
助言を求めようと思った繕明は、恵介に目を向けた――が。頭をばりばりと掻きながら肩を落としている姿を見て埒(らち)が開かないと判断した。
「ちょっと、待ってて下さい」
繕明は二人を残して自室に戻った。一番大きいサイズの段ボール箱を二つ掴んで、花輪夫妻の部屋へ取って返す。
恵介と智恵美をキッチンに並ばせ、繕明は箱を組み立てだした。
「今から少しバカみたいなことをやります。ですが、これはとても効果的な整理の仕方なんです」
出来上がった二つの箱をキッチンのど真ん中に陣取らせる。
そして、繕明は手に付いた物を取り上げて高々と掲げてみせると、
「これ、いりますか? いりませんか?」
それはレジのレシートだった。
二人の答えは勿論のこと、
「え? いや――、いりませんけど……」
恵介が口答する横で智恵美も首を横に振る。
「いりませんね? じゃあ、こっちの箱に入れましょう」
繕明はレシートを一方の箱に入れ、その箱には〝NO〟と大きく書いた。もう一方の箱には〝YES〟と書き付ける。
「では、次にこれはいりますか? いりませんか?」
そうやって繕明は、散乱する物を〝いる物〟と〝いらない物〟に二分するよう智恵美と恵介に言いつけた。最初は明らかにゴミだと分かる物から始めることも言い添える。
こうすることによって人は捨てる意識が強まるので、今現在の生活する上で必要かどうかを考えられるように思考をシフトさせられるのだ。
どちらかすぐに判断できない物は、取りあえず一カ所に集めて置いておき、大掃除が終わった後で二人に考えてもらえばいい。
繕明が〝NO〟の箱が一杯になる度に袋詰めしていくにつれ、部屋は大分落ち着いて来た。
「さあ、あとは部屋の埃を払って片づけてしまえば終わりですね」
と、恵介に笑顔で言ったところに――。
さらに上をいく笑顔の智恵美が割り込んだ。
「は~い、これはいりますか~? いりませんか~?」
繕明の位置からは智恵美の背中しか見えないが、彼女は胸元に何かを持っている様子だ。
それが恵介にとって都合の悪い物であることは、彼の顔色の変化で分かる。
「いりませんよね~?」
智恵美がずいっと恵介に顔を寄せる。
「いりませんよね~?」
「いや、それくらいは持ってても――」
恵介の許しをこう声を智恵美はさえぎり、
「い・り・ま・せ・ん・よ・ね~?」
一文字ずつ区切って、言い聞かせるように言った。
「……はい」
恵介がかっくりとうなだれる。
――どうやら、奥さんの大掃除は無事に終わったらしい。
「どうも、ありがとうございました~」
「いえいえ――」
繕明は智恵美にお礼を言われたが。一体、どちらにたいするお礼なのかは釈然としなかった。
「今度~、お礼になにかお裾分けしに行きますね~。肉ジャガはお好きですか~?」
「ええ、大好物ですよ。楽しみに待ってます。それでは――」
繕明は満面の笑みの智恵美と消沈した顔の恵介に会釈をして自室に戻った。
電気を点けた部屋の中をなんとなく歩き回る。
目を凝らせば見えるくらいの埃しか目立つ物がない。
そんな自分の部屋を見回して、繕明は軽い溜め息を吐いた。
――散らかす物がない部屋って、気持ちは良いんだけど……。
「大掃除する必要もないんだよな~」
――大掃除か……。少し、うらやましいな。