紙コップという物がある。
我々にとってとても身近な存在であるこれは、実に整えられた形で造られており、ある意味で非の打ち所無く統制が取れた形と言えるだろう。
その何故を語る前に、一歩外へ出てみよう。
ほんのちょっとおもてを歩けば、そこは紙コップのような物達でいっぱいだ。
電信柱、街路灯、溝の蓋、マンホール、用水路に設けられた柵、信号機。もちろん家やビルなどの建造物。これらは人の生活を整理するために造られた物だ。
工事現場をのぞけば、スコップから重機に至るまで数多の工業物に出会える。彼らは整理する物自体を造るためにある。
じゃあ、ここでちょっとお店に入ってみよう。実生活でよくご入り用なスーパーマーケットだ。
まず目に飛び込んでくるのは買い物カゴだと思う。これも良くできた品だ。〝籠〟という名前を冠(かん)されている以上、なにか物を一時的に入れるためにあるわけだが。買い物カゴには特有のにくい部分がある。
それは、物を整理するだけではなく、カゴ自体も整理しやすく形作られているところだ。 ここで紙コップに話が戻ってくる。
一回の使い切りで、次の段階には焼却処分の対象になる儚い運命をも抱えて生み出されているとは言え、この品は利便性に富んでいる。
液体、固体を問わず入れることが出来るので、最近ではこれを使った整理方法も生活の知恵として多く編み出されている。
道具箱の中に散らばる小物を個別に区分け整理したり、衣類の収納では下着や靴下を片付けに使用するらしい。さらに、お祭りなどでは調理の際には調味料の配合や、お客さんに出物を手渡す時の容器にもなって用途に事欠くことがないそうだ。
ここまで長々と講説をたれてきたが、そろそろ結論を言ってしまおう。
しからば〝整理〟とは一体なんぞや? それは――。
〝物事を安定させること〟なのです。
身辺整理しかり、精神整理しかり、遺品整理しかり、交通整理しかり、区画整理しかり。 このように、ミクロとマクロの隔たりを越えた混乱を落ち着けることが〝整理〟なのです。
交通整理と言えば、あの赤い三角コーン、日本ではカラーコーンでお馴染み、正式名称ロードコーンが思いつきます。
これも紙コップや買い物カゴと同じで、自身の整理に特化した物ですが、さらに利他的な安全性能の持ち主だ。その事情に無関係な人の進入・立ち入りの禁止をおこない、世情を乱さぬ有効的な場所へと人を誘導する。
時に蹴飛ばされ、時にはタイヤ、果てはキャタピラにまで踏まれ、あらゆる衝撃によってその体が壊れたとしても、なお立っていられるというのであれば使われる、円錐形という持って生まれた己の体躯に不満もあげず、その天分に屹立して人々を安定に導く――。
――それにしても……。
「大丈夫かなぁ? ――ぅあっ!」
給湯ブースで珈琲を淹れていた繕明は、ドリッパーからお湯が溢れていることにようやく気がついた。なんとなく眺めていた紙コップに軽くトリップ状態になっていたようだ。
慌てて干してあった布巾を引っ掴み、床に滴ったお湯を拭いていく。
「あの、手伝います」
ふいに掛けられた声の主は内定研修員の誠司だった。だんだんとこの職場に慣れてきたようで、最近では「良く気がつく良い子」だと女性社員から好評をもらっている。
「ああ、悪いね」
内心、繕明は一人でいたかった。だが、断る間もなく誠司は別の布巾を使ってシンクまわりを拭き始めてしまい、断るタイミングを見失ってしまった。
あらかた拭き終わったところで誠司が口を開いた。
「揃江さん、どうかしたんですか?」
「へ?」
「今日は朝から、どこかに置き忘れてしまった心を探してるみたいですよ?」
誠司はこう言った妙な言い回しをする。社内報の新人プロフィールの趣味の欄にあった〝古い小説を読むこと〟は本当らしい。
「ええぇ! 俺って今日そんなにぼうっとしてる?」
「はい、さっきなんて紙コップに語りかけてましたし」
「いや、整った形だなぁって考えてただけだけど……」
――別にこいつと電波的に語らってたわけじゃない。
「なんと言いますか――」
誠司はそう前置きし、次いでこちらの気持ちを推量ったような声で言う。
「まるで恋煩いをしているように見えます」
「はっ?」
繕明は一瞬とまった。そして、耳から入った言葉を今の自分の状況に当てはめてみて、
「いや、そんなんじゃない。ただ今日は、親戚の大学受験の当日だから、それが少し心配になってるだけ」
「ああ、なるほど」
誠司は得心いったらしくコクコクとうなづいた。
繕明は新しい珈琲を淹れながら続けた。
「小さい頃から医者になるのが目標でな。思い入れが強い分、第一希望の大学受験への緊張もひとしおなんだって、この間ご両親から電話があってね。幼なじみの俺から激励してくれって頼まれてさ」
珈琲を二つの紙コップに注ぎ、その一つを誠司に勧める。誠司は会釈してからコップに口を付けた。
「俺は、受験ってのは孤独な戦いだから、変に横槍を入れるようなことすると邪魔になるって思ったんだけど、どうしてもって言われて――」
「きっと娘さんのことが心配だったんですよ」
「まあ、そうだろうけどさ――」
言い流していた繕明だったが、誠司の言葉に引っ掛かるモノを感じて思わず訊いた。
「あれ? なんで娘だって知ってるの?」
言い終えてから繕明は〝はっ〟とした。
見ると誠司が朗らかに笑っている。
――しまった!!
「やっぱり女の子なんですね?」
「ああ、うん、まあ……」
こいつ――! 鎌掛やがった!!
そこに後輩の勇夫まで顔を突っ込んでくる。
「なんの話っスか? 恋煩いとか聞こえたんですけど」
このタイミングでの耳ざとさと、野次馬根性な笑みを貼り付けた勇夫が無闇に腹立たしい。
いきおい繕明は勇夫の失態をほじくり返した。
「そんなことより川下。この前注意したデスクトップの整理はやったんだろうな?」
「えっ!? まあ、はい……」
勇夫が見る間見る間に顔色を青くしている。
つまり、やっていないのだろう。
「よしっ、今から俺が見てる前でちゃんと整理しろ。休憩時間が終わるまで監督してやる」
「ええっ!!」
勇夫が忙しく表情を変える。
その横で、誠司は甲斐甲斐しく珈琲を片付けだし、
「こっちはやっておきます。どうぞ、そちらのほうに――」
と、屈託のない笑顔を向けてきた。
「動くことで安定する物事もありますよ」
「…………」
――どうやら独り言を言っていたらしい。
むず痒いモノがはしった繕明は首筋を掻き撫でた。
だが、確かに今は動くことで心が落ち着く気がした。