話し終えた繕明が窓の方を見やると、窓を叩いていた雨は止んでいた。
「こうして言葉にしてみると、どうにも情けないですね。そろそろ三十になろうっていう大の男が、従姉妹の大学受験が心配で勝手に頭抱えるなんて――」
なんだか軽くなった肩を回していると智恵美が言った。
「揃江さんは、その子のことが好きなんですね~」
「えっ!?」
智恵美の言葉に繕明の心臓は弾かれた。
「いやっ――あのですね、好きとかそういう事ではなくてですね。親戚として心配になってるだけで」
「それじゃ、揃江さんは優しいだけです~。でも、優しい人っていうのは~、自分以外の人に迷惑を掛けたくないって思って、なにかあったら一人で抱え込んでしまうんです~」
その声に並々ならぬ重みを感じた繕明は智恵美の話に聞き入った。
「人から優しくされることって中々ないじゃないですか~。揃江さんって特にそうだと思うんです~。どちらかというと、人に優しくしている人ですから~。揃江さんみたいな人って、見た目からも暖かさが伝わってくるんです~。だから、みんな揃江さんにだったら甘えられるって思っちゃうんですよ~。それで、逆に揃江さんもその気になっちゃってる部分があるんですね~。きっと、お片付けを手伝っているのは、その延長なんですよ~」 自分でも自覚していない心の何処かを教えられたみたいだった。奇妙な感覚に足元がふらついてしまい、思わずソファーに腰をおろす。
「一人じゃ片付けることができないから、揃江さんは頼りにされるんです~。一人じゃ解決できないことは、誰かに頼らないと解決できませんよ~。素直に、頼ったら良いんです~。例え〝受験の手応えを訊く〟でも~」
智恵美に言われて、何気なく手に持ったままになっている携帯電話に目を落とした。画面をタップすると発信準備が整っている香奈の電話番号が表示される。
繕明の心はしかし落ち着いておらず、今だに不安感が苛んできていた。
そのとき、ふっと足元が明るくなった。クッションフロアのフローリングのライトブラウンの上に、カッターで切り取ったような四角い明かりがはりついている。窓を見ると、雲間から太陽がのぞいていた。
ほどなく陽射しを陰らせていた雲が綺麗に流れ、その広さも分からない青空が顔を出した。
繕明はおもむろに立ち上がった。
「花輪さん、良いお話でしたけど、まだ少し落ち着かないんです。そこで、もしよろしければなんですが――」
「はい、なんでしょ~?」
繕明は笑顔で智恵美に言った。
「部屋干ししていた洗濯物を、ベランダに移すのを手伝ってもらえませんか?」
智恵美は繕明に負けない微笑みで、
「よろこんで~」
きっと、彼女の夫の恵介はこの微笑みに惚れたんだろう。
智恵美が運んでくる洗濯物を繕明は物干し竿に掛けていく。
「布地が厚い服ほど外側に干して、日が当たるようにするのがこつです。もしくはズボンのように長い服を外側、短い服を内側。これは、厚い服を外側、薄い服を内側と考えてもかまいません。こうすることで、風が入りやすくなって、気流が途中で止まることがなくなります。あと、乾いたバスタオルなんかも一緒に干しておけば、水分の蒸発が早まるので効果的に乾かせますよ」
誠司の言っていた〝動くことで落ちつく時もある〟は、やってみると覿(てき)面(めん)に効いている。すっかり晴れわたった空の下、全ての洗濯物がベランダに並ぶ頃には。繕明の心にこびり付いていた不安は綺麗になくなっていた。
「それじゃ、そろそろ帰りますね~。さっそく揃江さんの言うとおりにお洗濯物を干してみたいし~」
「はい、ありがとうございました」
「いいえ~、こちらこそ~」
互いに会釈をしたあと、智恵美を玄関まで見送った。
ドアを閉めると同時に――、
着信音が耳に飛び込んできた。
もしやと思って携帯電話を持ち上げる。
香奈からだ。
繕明は兎にも角にも通話ボタンを押した。
「もしもし、香奈ちゃん?」
「あ――シ兄?」
受話口の向こうからは今し方までねこけていたような声が聞こえてきた。少し電波が悪いのでベランダに出る。
「寝てたのか?」
「うん、試験が終わってからもなんだか落ち着かなくってさ。勉強したり、しなかったり。眠ったり、眠れなかったりで、ボウッとしちゃってた」
「でっ――、どうだったんだ? その、手応えは?」
「う~ん」
そう唸ったきり、香奈は黙り込んでしまう。心臓に悪い数秒を味わわされたあと――、
「まあ、大丈夫だと思う」
繕明は胸の中でこもっていたモノを、止めていた息と一緒にはき出して肩の力を抜いた。
「そうかぁ――、良かったぁ~」
「なにそれ? なんで受験した当人よりほっとしてんのさ」
「ああ、自分でも笑えてくるよ。でも、ここ数日は気になって気になって」
「あ…………ごめん」
香奈の声が健気に小さくなる。
「心配してくれてたのに、連絡もしなくて」
「謝らなくていい。全力出したあとに気を回せって言う方が無理な話だ」
繕明はもう一度確認するように訊いた。
「合格してるっていう気持ちの方が強いんだな?」
「うん」
「なら大丈夫だよ」
「結果見るまでは、まだちょっと怖いよ」
「弱気になると気持ちに押しつぶされるぞ。そうだ、合格したら、俺に出来ることなら何でもお願いきいてやるよ」
「え? ほんとに?」
電話の向こうで、香奈がガバッと起き上がる様子が聞こえた。軽はずみなことを言ってしまったかと思ったが、海外旅行くらいのお願いならプレゼントの範疇だ。
まあ、問題ないだろう。
そう思いながら繕明は返事する。
「ああ、約束だ」
「やった、この約束、絶対に守ってもらうからね」
そのあと、他愛のあるやり取りを二、三言交わして通話を切った。
大きく深呼吸をして、ベランダから見える町並みを眺める。さっきまで灰色だった景色が、陽の光を吸収して鮮やかに彩られていた。
ふうっと心地好い風がと吹き込んでくる。
繕明はその流れの中に、あたたかな春の匂いを感じた気がした。